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2003年12月7日日曜日

会長杯・6年生

色々と考えるところがあって、6年生の試合についてコメントするのが遅くなりました。
1週間以上(ていうか2週間…)経つというのに、なかなか考えがまとまりません。
ということで、ダラダラと長い文章になってしまいました…

今までの「ひとり言」を読み返してみると、6年生(昨年の5年生)に関しては「良いゲームだった!」とコメントしているものはありません。
勝った試合でさえも「まだまだ物足りない…」といった様なことを書いてきました。
まぁ、これはどの学年のコメントを見ても当てはまるのですが…
結局、自分は『褒めないコーチ』なのかとも思ってしまいました。

とは言っても、他の学年に対しては「満点とは行かないまでも、及第点」とか「悪くない」といったコメントはしているような気がします…(すべて読み返したわけではないので、自分の記憶だけが頼りですけど)
では、つばさの歴代の学年の中では常に上位の成績を収めている現6年生のどこがいけないのでしょうか?
誤解を恐れずに言えば、勝ちすぎてしまったことかもしれません。

「勝ち」の味を最初(低学年の頃)から味わい、「勝ち」にトコトンこだわる。
そして、「負ける」事を非常に嫌がる。
これは素晴らしいことです、「競技」としてスポーツをする上では不可欠な要素だと思います。
しかし、これが裏目に出てしまったような気もするのもまた正直な感想なのです。

6年生(6年に限らず、つばさの子ども達には)には、力でゴリ押しするのではなく、技術と判断力で相手を圧倒するようにと言い続けていました。
パワーもスピードも自分より低いレベルの選手を相手にする場合は、判断ミスや技術的なミスを身体能力で帳消しにしてしまうことができます。
そして、今の6年生には、そのようにミスを帳消しにしてしまう身体能力を持っている子ども達が多いのです。

その結果、ミスをミスと感じない様になってしまっているのではないでしょうか?
コーチ達が「こんなんじゃダメだ!もっとボールコントロールに神経を使わないと!」とか「相手との駆け引きをしていないじゃないか!これじゃ能力の高い相手には通用しないぞ!」と言っても、結果として「勝ち」を手に入れている子ども達にはどれだけ浸透していたのか…

「勝ったからいいや!」とまでは思っていないでしょう。
しかし、勝ったゲームの中からストイックなまでに課題を見つけ出し、常に前向きに取り組む…そんな選手がいたでしょうか?
またそれは、自分にも言えることです。
「良くないゲームだ」とは思っていても、「でも勝てちゃってるんだよな…」と子ども達に徹底して意識付けをさせていなかったと猛省してます。

1試合目のKFC戦は見ていませんが、試合会場の武蔵台小に着いたときには、試合後のミーティング中でした。
これがまた非常に暗い!
負けたからなのでしょうが、2試合目にはこんな雰囲気はありませんでした。
もちろん、2試合目には勝ったからなのですが、内容はといえば…今まで通りの身体能力サッカーでした。
決して良い内容だとは言えません。
むしろ悪いゲームだったといえるでしょう。
その2試合目を終えてこそ、「勝てはしたけど、自分のプレーには全く納得できなかった…」と落ち込んでほしいものですが、そんな様子は全くありませんでした。

1試合目は、何でそんなに落ち込んでいたんだ?
2試合目に関しては、何を感じていたのか?
自分にはよく分かりません…
そして、残りの数ヶ月間をどのように過ごさせるべきか…考えがまとまりません。

たとえ大差で勝った試合でも、鬼軍曹のように「全くなってない!罰としてグランドを走ってこい!」とでも言った方が良いのか?
コーチとして、こちらの方針や考え方を子ども達に浸透させるためには、それを伝えなければいけないのですが、年がら年中、手取り足取り指導をしていて、子ども達は育つのでしょうか?
その辺のさじ加減が非常に難しいと感じます。

コーチや周りの大人に言われてから行動を起こすのではなく、自分の手で何かをしてほしいのです。
「こうしろ!」「はい、やります」「できました」…「じゃ、次はこれだ!」「はい、分かりました!」…これじゃロボットです。
何事も教えてもらうのではなく、自分でつかみ取ってほしいのです。

さて、少し話はそれますが、日本ではストライカー不足という事が何年も前から言われています。
しかし、日本の文化や教育環境の中では天才が生まれないと言われているのと同じように、ストライカーも生まれないのではと言われています。
確か、日本協会の田島幸三氏の発言だったと思いますが、自分もその通りだと思います。

学歴社会の歪みから生じる学校教育の現状…これは日本の文化とも言えるのかもしれませんが、教科教育の本来の目的とは全く異なった方向へ進んでいるような気がします。
所謂「つめこみ教育」を改善しようと「ゆとりの教育」に方向転換したものの、学歴偏重の社会情勢には全く手がつけられていないため、親や子どもは「これでは落ちこぼれになってしまう!」と慌てて塾通いに精を出す…
全く「ゆとり」とはほど遠い気がします…

教員を目指していた自分も、学生時代に色々と考えました。
自分は数学が専門だったので、数学(算数)に関して言えば、学校で数学(算数)を学ぶ目的は、ズバリ「数学的なものの考え方を身につける」事だと思います。
テストで高い点数を取ることでは決してないと思うのです。
ましてや良い学校に入ることなどは、全くもって関係ありません。
ものごとを筋道立てて論理的に考えるとか、色々な可能性を吟味しながら仮説を立ててその仮説が正しいかどうかを証明する…
公式を丸暗記するだとか、速く計算して正確に答えを出すなんて事は、できれば良い程度のことだと思います。

しかし、現状は「結果」のみに目を奪われてしまっています。
テストで高得点を取ること。
良い(といわれている)学校に進学すること。
その結果、全く中身のない計算機のような受験生が優秀とされてしまうのです。
教育というものは、人間の内面を研くものだと思うのですが…

何となく6年生の子ども達と(6年生に対する)自分の反省点とダブっているような気がします。
「結果」ばかりに目を向けていてはいけないのです。
数学的なものの考え方は、豊かな感性を持った人間になるために必要なことだと思います。
つばさの6年生には、レベルの差こそあるとは思いますが、インテリジェンス溢れるサッカー選手に、そして感性豊かな自立心のある人間になってもらいたいのです。

そのためには、試合内容や練習内容を振り返って、自分自身を評価してほしいのです。
勝った試合でも、納得のできないプレー内容というものはあります。
反対に、負けた試合でも満足のいく内容だったということもあります。
勝ったから、課題がぼやけてしまうことのない様にしたいものです。
しかし、「結果」がどうでも良いのではないのです。
「結果」にこだわることも必要です。
う~ん…最初と同じようなことを言っている気がする…
たちの悪い酔っぱらいみたいだ…

うまくまとまらないので…最後に、教育実習に行った時に非常にショックを受けたことを紹介します。
教員養成系の大学に通っていた自分は、3年時に1回(附属小学校)と4年時に2回(区立小学校と附属中学校)の教育実習に行きました。
最初の附属小学校(世田谷)に行った時、自分の常識を覆すほどの衝撃的な授業を見ることができました。
これが、後の自分の考え方の基礎になっていることは間違いありません。

それまで、自分の中では授業というものは、所謂「講義」形式で、先生があれこれ説明して、生徒に「分からせる」という認識でした。
しかし、そこで行われていた授業は、全く違ったものでした。
先生はほとんど喋りません。
授業は生徒達(6年生)が討論形式で進めていきます。
その日は「分数の割り算」だったのですが…
「分数で割るってできるのか?」
「そもそも『÷』ってどういう事?」
「少数の割り算で使った考え方を利用できるんじゃないか」…等々
分数の割り算は、割る方の分数の分子と分母を反対にしてかけ算にしてしまえば、正しい答えが出るんだよ!…などといった、世間一般の「算数」とは全く次元の異なった授業内容でした。
分数の割り算を計算することだとか、計算があっているかどうかなんてことは、全く問題になっていませんでした。
分数の割り算をせざるを得ないような状況だけが先生から与えられていて(専門用語(?)では『場の設定』)、それを子ども達の力で解決していこうとしているのです。
そして、なによりもその授業を子ども達主体で進めていたことにビックリしました。

誘導尋問のように子ども達を引っ張っていくのではなく、子ども達がそうしてしまうような状況を与え、そのような状況を創り出すことが大切なんだと感じました。
また、そうすることで、子ども達は持っている可能性を大人達の想像のつかないところまで引き出すのだとも思います。

でも、その時は「やっぱり国立の附属小学校の子どもは違うなぁ…」なんて呑気に考えていました。
しかし、自分がその子達を前にして授業をしてみると…
全く違うのです、何がって…子ども達が全く発言しないんです!
子ども達の持っている可能性は、その前の授業でイヤというほど目にしてきました。
それが、自分の授業では全く引き出せない…
指導者の重要性と自分の無力さを痛感した瞬間でした。

さて、6年生を筆頭につばさの子ども達…
まだまだ可能性を引き出せていないと思います。
実習から10年以上経っているのに、まだまだ自分の力不足を痛感します。
目指すは、「自分」をしっかり持った子ども…

なんだか訳の分からない「ひとり言」でしたが、そもそも「ひとり言」なんだからイイのかな…

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