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2003年12月21日日曜日

会長杯・6年生・決勝T

今回も、桃二で低学年の練習を終えてからの移動となりました。
自転車を漕いで、武蔵台小学校に到着したところ、ちょうど6年生の父兄が出てくるところでした。

「おつかれさまです。4─1でした!」(お母さん)
「あ、4─1でしたか!」(自分)
(4─1で…勝ったのかな?)(心の声)
「決勝は、江古田です」(お父さん)
「あ、そうですか。ありがとうございます」(自分)
(決勝って事は、勝ったのか…ホッ…)(心の声)

6年生が強い学年だという事は分かっています。
でも、サッカーは何があるか分かりません。
会場の武蔵台小学校は、非常に狭いグランドです。
交通事故のようなゴールが生まれても、全く不思議ではないのです。
それに加えて、2週間前に苦杯を経験したばかりの6年生ですし…
ケガ人や病人が多く、メンバーをそろえる事さえままならない状況でもあったし…
今日も、5年生を5人呼んでの決勝トーナメントになりました。

1試合目は全く見る事ができなかったので、どんな様子だったのかは全く分かりませんが、狭いグランドでボールを放り込んでくる相手の攻撃に対して、ちょっと苦しんでいるような様子が樋口コーチの話しから分かりました。

さて、決勝戦。
対戦相手は江古田サンダーズ。
予選リーグでは6─0で勝っている相手ではありますが、その時は四谷商業という広いグランドでした。
つばさの目指す「丁寧につなぐ」サッカーにとって、狭いグランドというのは天敵なのです。

同じ人数でも、狭いグランドに詰め込まれると、必然的に密度が高くなります。
という事は、ボールに対するプレッシャーが早くなるのです。
もちろん、その中でもしっかりとボールをコントロールして、フリースペースへボールを動かせばよいのですが、広いグランドでのサッカーと比較するとプレーの難易度は一気に高くなります。

立ち上がりは、全くボールが落ち着きませんでした。
蹴り合いのようなサッカーになってしまっていました。
もちろん、子ども達の意識の中には、蹴り合いをするつもりはないと思いますが、しっかりとマイボールにできない、取ったボールをすぐに相手に奪われる、クリアされるという展開で、ボールが終始落ち着きませんでした。

そんな中で、相手に先制点を奪われました。
早く点を取り返さなければという気持ちが前に出すぎ、強引な勝負を仕掛ける場面が目立ち始めました。
点を取られても、自分たちのサッカーを信じて攻め急がずにドンと構えていてもらいたいものですが、小学生にそこまで望むのは酷な話しでしょう…

その後、1点を返して落ち着いたのか、最近の6年生の試合にしては珍しく(?)ゆったりとしたボール回しを見せるようになりました。
欲を言えばキリがありませんが、今までの試合の中ではボールを失う場面が少なかったように思いますし、ボールを取られるにしても、ボールの失い方はそんなに悪くなかったように思います。
特に後半は、しっかりとチームでボールをキープし、「くずし」の前段階を良い状態にすることが出来ていたような気がします。

さて、力勝負で相手をねじ伏せる感の強かった6年生のゲームですが、今日の出来はナカナカのものだったのではないでしょうか?
もちろん、もっともっと良くなると思います。
そのためには、どうすればよいのか…

前の「ひとり言」にも書きましたが、どうすれば良くなるのかは、自分たちで考えるべきだと思いますし、そうしなければいけないと思います。
コーチから課題を示されて、それを消化するだけの作業は非常に楽な事なのですが、そこからは選手(そして一人の人間として)の「強さ」となる自主性は生まれてきません。
上手くなるのは、強くなるのは、成長するのは自分自身でしかないのです。

誰かに導かれて進むのは簡単です。
しかし、自分の力で進む時こそ、しっかりとした目標を持つ事も出来るでしょうし、本当にたくましくなれると思います。

でも、コーチは導くのが役目だと思います。
しかし…あえて多くを語りません。
課題のほとんどは、これまでの数年間で既に伝えてあります。
そして、この前の水曜練習でやった事をよく考えて下さい。

もう一度言います。
課題を感じるのも、見つけるのも、克服するのも自分でやるしかないのです。
また、自分で克服したものだけが本当の力になるのです。
人の助けを借りて克服したものは、「結果」として克服したように見えますが、「結果」を与えてもらったにすぎません。

本当の強さを身につけるために…
「自分」を「自分の力」をトコトン信じましょう。
やれば出来る!
しかし、やらなければ出来ない…

2003年12月14日日曜日

会長杯・5年生

さて、6年生のコメント同様に、こちらの方も遅くなってしまいました。
その間、ワールドユースや東アジア選手権などでの日本人(というか日本代表)の闘い方を見て、色々と感じるところがありました。
そうやって、思いを巡らせていると、「自分はちょっと変わっているのかな?」と感じることがしばしばあります。
そういう思いは前からあったのですが、でもそれがつばさのカラーになっているんだからという自負のようなものもありました。
でも、本当にこれで良いのかな?
なんて事も最近思っちゃったりします…
どうする事が子ども達にとって一番良いのだろう…
悩みは尽きません…

まず、試合ですが、いつも(?)のように低学年の練習を終えてから、試合会場に向かいました。
1試合目には間に合わないかとも思ったのですが、多田小に着いた時にはまだゲーム中でした。
コーチ達のいる(狭い)ベンチにムリヤリ腰を下ろし、「今、何対何?」とスコアを聞いたら「0─0です!良くないです!」との事…

そして、その直後、WSCの右サイドの選手へパスが渡りました。
この選手がなぜだかドフリー!
しかも、ゴールへ向かってナイスコントロール!
そのまま落ち着いてシュート!
あっさりとゴールを奪われてしまったのです。
その時、会場にいたダレよりも焦ったのは、選手達ではなく自分だったと思います。
なにしろ、ベンチに座ったとたんに失点ですから…
「やばい、オレ、負けコーチ?疫病神?」とイヤな予感がしたものでした。

しかし、5年生はやってくれました。
鈴木コーチも掲示板に書いていますが、今までの5年生ならば、そのままズルズルと負けてしまう可能性が大でしたが、何とか同点弾を押し込みました。
その後、さらに1点を献上し、突き放されかけたのですが、ロスタイムでしぶとく同点に追いつき、PK合戦を制したのでした。

その後の決勝戦は、4─1とある程度安心してみていられる展開で、春に続いて中野区を制することができました。
冗談抜きで負けを覚悟した準決勝をひっくり返して(正確に言うと『ひっくり返す』まではいかず、追いついた)優勝をもぎ取った5年生は、勝負強くなったと思います。
優勝という結果と、勝負強さを見せた試合展開には、素直に拍手を送りたいと思います。

しかし…
しかしです!
最初に、自分がベンチに座った時のコーチの言葉「良くないです!」が表すように、試合内容は本当に良くありませんでした。
ここまでの5年生は、どちらかというとキレイなサッカーをする学年でした。
春の大会では、ちょっとした質の違いを見せつけるような内容で優勝しました。
でも、今回の準決勝以降は、何とか勝てたという感じのサッカーでした。

閉会式の時に、少年連盟の会長が「嬉しかった人は?」「悔しかった人は?」と聞いていました。
つばさの選手達は当然「嬉しかった人」に全員手を挙げました。
他のチームの選手達は、全員「悔しかった人」に手を挙げました。
ここで、会長がちょっと変化球を投げました。(自分は「ナイス、会長!」と思いました)
「では、優勝したつばさの選手の中で悔しかった人はいるかい?」
……誰も手を挙げませんでした。

この場面だけを見ると、優勝して万々歳!嬉しさで一杯です!
という感じに見えてしまいます。
訊き方を変えれば、違ったのかもしれませんが、優勝という結果のみに酔ってはいけないと思うのです。
6年生のところにも書きましたし、前回の春の優勝のところにも書いたと思いますが、満足してしまっては成長が止まってしまうのです。
優勝の余韻に浸る期間が終わった時で構いません、改めて自分のプレーを振り返り、今後の成長に生かそうとしている5年生がいることを期待します。

さて、話は変わりますが、ちょうどこの時期に前後してワールドユースと東アジア選手権が行われていました。(決勝戦当日はトヨタカップも…)
ワールドユースは、ベスト8という成績を残すも、ブラジルに惨敗…
また、それまでのゲーム内容も決して良いものではありませんでした。

ブラジルに負けた次の日のスポーツ新聞を見ると、「ブラジルの選手はお互いにパスを要求するし、試合中でも言い争っていた。自分たちは甘ちゃんだった」とか「プレーの形がない相手にどう対処していいか…。パニックだった」という選手のコメントが載っていました。
いくらユース年代といっても、ほとんどがプロ契約をしている選手であって、しかも日の丸をつけている選手がこのような状態とは…

ワールドカップバレーの時にも思ったのですが、どのスポーツの世界を見ても日本人選手のメンタリティには、自主性というものが感じられないのですが、それは自分だけでしょうか?
日本では、所謂「厳しい」「レベルの高い」という環境であればあるほどコーチが厳しく、また、そのようなコーチが歓迎されているような風潮もあると思います。
でも、そこから生まれるものは、コーチにやらされている選手なのではないかとも思うのです。
コーチに怒鳴られながらプレーする…
コーチに怒鳴られないようなプレーをする…
このような環境から、本当に強い選手は生まれないのではないかとも思うのです。

本当に厳しい環境とは、手を抜けば試合には全く使われなくなったり、簡単にクビを切られてしまったりという事だと思うのです。
日本の場合は、手を抜けばコーチが怒鳴ります。
でも、怒鳴られればすんでしまうのです。
「すみませんでした」と謝ってしまえば、また試合に使ってもらえます。
女子選手であれば、涙を流したりすると「泣き虫○○」なんてニックネームをつけられつつも、頑張っているなぁと美化されてしまいます。

私は、選手に対して鬼のように接するコーチは、実は非常に優しいコーチだと思うのです。
むしろ、優しすぎることで、選手の方も優しくなってしまっているような気もします。
本当に厳しいコーチは、手を抜いている選手を横目でチラッと見て、次のゲームから何も言わずに活きのイイ若手を使うコーチだと思います。
自分の勝手な想像ですが、このような競争意識を持たせる環境は外国に多いと思うのですが…

サッカーの世界に関していえば、南米の選手は皆、サッカーで成り上がろうとしています。
当然、(プロになるまで)手を抜くなんて事はないと思います。
新入りの選手に活躍されると困るので、絶対にパスを出さないとさえいいます。
選手全員がハングリー精神の固まりのようなものだと思います。

でも、ヨーロッパの経済的に安定している国でもメンタリティの強い選手はたくさんいます。
やはり、サッカーをやらされているのではなく、自分でやっているからでしょう。
サッカーが好きで、サッカーが上手くなりたいという純粋な動機だと思います。
そして、その動機が本当にしっかりしているのがトップの選手達だと思うのです。

さて、日本の選手達…
サッカーをやるというしっかりとした動機を持っている選手がどれだけいるか不安になってしまいます。
たしかに、日本は豊かな国です。
誘惑も多いです。
サッカーで成り上がらなくても、生活に困ることはないでしょう。
でも、だからこそ、「オレにはサッカーしかない!」という意識を持った選手が必要なのです。

ちょっと活躍するとマスコミで取り上げられ、アイドル扱いされてしまう日本の風潮にも問題はあると思いますが、それでもサッカーに対する気持ちだけは強く持ち続けなければいけないのです。
若い頃(中学、高校)の中田英寿は、非常に練習熱心で自分のプレー一つひとつに高いこだわりを見せていたとの話を聞いたことがあります。
当時、彼の年代には財前という天才プレーヤーがいて、中田英寿は財前の出したパスに走っていた「コマ」だったのですが…
その強いメンタリティが、今の彼を造ったとも言えるでしょう。
今は、「オイ!かかってこい!」とか「おまえ、金もらってんだろ!」なんて名ゼリフを審判に対して吐いてしまう、セレッソの大久保の行く末が気がかりでなりません…

さて、ここで話を戻しましょう。
もし、南米の子ども達だったら、決して今回の試合内容に満足していないと思います。
小学生の大会で優勝しても、プロになれないからです。
プロにならないとお金を稼げないからです。
プロになるためには、自分が上手くならなければいけないのです。

ヨーロッパの子ども達も、満足はしないでしょう。
南米の子ども達ほどお金が目的ではないでしょうけど、彼らは真剣にサッカーが上手くなりたいのです。
だから、チームの成績も大切ですが、一番大切なのは自分のプレー内容だということが分かっているはずです。

別に、つばさの選手達にプロになれとはいいません。
でも、上手くなるのも自分次第。
能力を腐らせるのも自分次第。
つばさのコーチ達は、あまり怒らないし、ハッパをかけることもありません。
でも、自分で頑張らなければいけないのです。
たとえ、それがサッカーじゃなくても…

育て、自主性&強いメンタリティ!(う~ん、またしても訳が分からん…)

2003年12月7日日曜日

会長杯・6年生

色々と考えるところがあって、6年生の試合についてコメントするのが遅くなりました。
1週間以上(ていうか2週間…)経つというのに、なかなか考えがまとまりません。
ということで、ダラダラと長い文章になってしまいました…

今までの「ひとり言」を読み返してみると、6年生(昨年の5年生)に関しては「良いゲームだった!」とコメントしているものはありません。
勝った試合でさえも「まだまだ物足りない…」といった様なことを書いてきました。
まぁ、これはどの学年のコメントを見ても当てはまるのですが…
結局、自分は『褒めないコーチ』なのかとも思ってしまいました。

とは言っても、他の学年に対しては「満点とは行かないまでも、及第点」とか「悪くない」といったコメントはしているような気がします…(すべて読み返したわけではないので、自分の記憶だけが頼りですけど)
では、つばさの歴代の学年の中では常に上位の成績を収めている現6年生のどこがいけないのでしょうか?
誤解を恐れずに言えば、勝ちすぎてしまったことかもしれません。

「勝ち」の味を最初(低学年の頃)から味わい、「勝ち」にトコトンこだわる。
そして、「負ける」事を非常に嫌がる。
これは素晴らしいことです、「競技」としてスポーツをする上では不可欠な要素だと思います。
しかし、これが裏目に出てしまったような気もするのもまた正直な感想なのです。

6年生(6年に限らず、つばさの子ども達には)には、力でゴリ押しするのではなく、技術と判断力で相手を圧倒するようにと言い続けていました。
パワーもスピードも自分より低いレベルの選手を相手にする場合は、判断ミスや技術的なミスを身体能力で帳消しにしてしまうことができます。
そして、今の6年生には、そのようにミスを帳消しにしてしまう身体能力を持っている子ども達が多いのです。

その結果、ミスをミスと感じない様になってしまっているのではないでしょうか?
コーチ達が「こんなんじゃダメだ!もっとボールコントロールに神経を使わないと!」とか「相手との駆け引きをしていないじゃないか!これじゃ能力の高い相手には通用しないぞ!」と言っても、結果として「勝ち」を手に入れている子ども達にはどれだけ浸透していたのか…

「勝ったからいいや!」とまでは思っていないでしょう。
しかし、勝ったゲームの中からストイックなまでに課題を見つけ出し、常に前向きに取り組む…そんな選手がいたでしょうか?
またそれは、自分にも言えることです。
「良くないゲームだ」とは思っていても、「でも勝てちゃってるんだよな…」と子ども達に徹底して意識付けをさせていなかったと猛省してます。

1試合目のKFC戦は見ていませんが、試合会場の武蔵台小に着いたときには、試合後のミーティング中でした。
これがまた非常に暗い!
負けたからなのでしょうが、2試合目にはこんな雰囲気はありませんでした。
もちろん、2試合目には勝ったからなのですが、内容はといえば…今まで通りの身体能力サッカーでした。
決して良い内容だとは言えません。
むしろ悪いゲームだったといえるでしょう。
その2試合目を終えてこそ、「勝てはしたけど、自分のプレーには全く納得できなかった…」と落ち込んでほしいものですが、そんな様子は全くありませんでした。

1試合目は、何でそんなに落ち込んでいたんだ?
2試合目に関しては、何を感じていたのか?
自分にはよく分かりません…
そして、残りの数ヶ月間をどのように過ごさせるべきか…考えがまとまりません。

たとえ大差で勝った試合でも、鬼軍曹のように「全くなってない!罰としてグランドを走ってこい!」とでも言った方が良いのか?
コーチとして、こちらの方針や考え方を子ども達に浸透させるためには、それを伝えなければいけないのですが、年がら年中、手取り足取り指導をしていて、子ども達は育つのでしょうか?
その辺のさじ加減が非常に難しいと感じます。

コーチや周りの大人に言われてから行動を起こすのではなく、自分の手で何かをしてほしいのです。
「こうしろ!」「はい、やります」「できました」…「じゃ、次はこれだ!」「はい、分かりました!」…これじゃロボットです。
何事も教えてもらうのではなく、自分でつかみ取ってほしいのです。

さて、少し話はそれますが、日本ではストライカー不足という事が何年も前から言われています。
しかし、日本の文化や教育環境の中では天才が生まれないと言われているのと同じように、ストライカーも生まれないのではと言われています。
確か、日本協会の田島幸三氏の発言だったと思いますが、自分もその通りだと思います。

学歴社会の歪みから生じる学校教育の現状…これは日本の文化とも言えるのかもしれませんが、教科教育の本来の目的とは全く異なった方向へ進んでいるような気がします。
所謂「つめこみ教育」を改善しようと「ゆとりの教育」に方向転換したものの、学歴偏重の社会情勢には全く手がつけられていないため、親や子どもは「これでは落ちこぼれになってしまう!」と慌てて塾通いに精を出す…
全く「ゆとり」とはほど遠い気がします…

教員を目指していた自分も、学生時代に色々と考えました。
自分は数学が専門だったので、数学(算数)に関して言えば、学校で数学(算数)を学ぶ目的は、ズバリ「数学的なものの考え方を身につける」事だと思います。
テストで高い点数を取ることでは決してないと思うのです。
ましてや良い学校に入ることなどは、全くもって関係ありません。
ものごとを筋道立てて論理的に考えるとか、色々な可能性を吟味しながら仮説を立ててその仮説が正しいかどうかを証明する…
公式を丸暗記するだとか、速く計算して正確に答えを出すなんて事は、できれば良い程度のことだと思います。

しかし、現状は「結果」のみに目を奪われてしまっています。
テストで高得点を取ること。
良い(といわれている)学校に進学すること。
その結果、全く中身のない計算機のような受験生が優秀とされてしまうのです。
教育というものは、人間の内面を研くものだと思うのですが…

何となく6年生の子ども達と(6年生に対する)自分の反省点とダブっているような気がします。
「結果」ばかりに目を向けていてはいけないのです。
数学的なものの考え方は、豊かな感性を持った人間になるために必要なことだと思います。
つばさの6年生には、レベルの差こそあるとは思いますが、インテリジェンス溢れるサッカー選手に、そして感性豊かな自立心のある人間になってもらいたいのです。

そのためには、試合内容や練習内容を振り返って、自分自身を評価してほしいのです。
勝った試合でも、納得のできないプレー内容というものはあります。
反対に、負けた試合でも満足のいく内容だったということもあります。
勝ったから、課題がぼやけてしまうことのない様にしたいものです。
しかし、「結果」がどうでも良いのではないのです。
「結果」にこだわることも必要です。
う~ん…最初と同じようなことを言っている気がする…
たちの悪い酔っぱらいみたいだ…

うまくまとまらないので…最後に、教育実習に行った時に非常にショックを受けたことを紹介します。
教員養成系の大学に通っていた自分は、3年時に1回(附属小学校)と4年時に2回(区立小学校と附属中学校)の教育実習に行きました。
最初の附属小学校(世田谷)に行った時、自分の常識を覆すほどの衝撃的な授業を見ることができました。
これが、後の自分の考え方の基礎になっていることは間違いありません。

それまで、自分の中では授業というものは、所謂「講義」形式で、先生があれこれ説明して、生徒に「分からせる」という認識でした。
しかし、そこで行われていた授業は、全く違ったものでした。
先生はほとんど喋りません。
授業は生徒達(6年生)が討論形式で進めていきます。
その日は「分数の割り算」だったのですが…
「分数で割るってできるのか?」
「そもそも『÷』ってどういう事?」
「少数の割り算で使った考え方を利用できるんじゃないか」…等々
分数の割り算は、割る方の分数の分子と分母を反対にしてかけ算にしてしまえば、正しい答えが出るんだよ!…などといった、世間一般の「算数」とは全く次元の異なった授業内容でした。
分数の割り算を計算することだとか、計算があっているかどうかなんてことは、全く問題になっていませんでした。
分数の割り算をせざるを得ないような状況だけが先生から与えられていて(専門用語(?)では『場の設定』)、それを子ども達の力で解決していこうとしているのです。
そして、なによりもその授業を子ども達主体で進めていたことにビックリしました。

誘導尋問のように子ども達を引っ張っていくのではなく、子ども達がそうしてしまうような状況を与え、そのような状況を創り出すことが大切なんだと感じました。
また、そうすることで、子ども達は持っている可能性を大人達の想像のつかないところまで引き出すのだとも思います。

でも、その時は「やっぱり国立の附属小学校の子どもは違うなぁ…」なんて呑気に考えていました。
しかし、自分がその子達を前にして授業をしてみると…
全く違うのです、何がって…子ども達が全く発言しないんです!
子ども達の持っている可能性は、その前の授業でイヤというほど目にしてきました。
それが、自分の授業では全く引き出せない…
指導者の重要性と自分の無力さを痛感した瞬間でした。

さて、6年生を筆頭につばさの子ども達…
まだまだ可能性を引き出せていないと思います。
実習から10年以上経っているのに、まだまだ自分の力不足を痛感します。
目指すは、「自分」をしっかり持った子ども…

なんだか訳の分からない「ひとり言」でしたが、そもそも「ひとり言」なんだからイイのかな…